思い出とは風化し、美化されていくものです。
ぐみが亡くなった直後だからこそ思い出せることをつづっていきたいと思います。
そしてこの記録の最後に、本当に残念なタイミングでぐみが亡くなってしまったこと、その理由についてもお話させていただきたいと思います。
長文となりますので、お時間があるときに目を通していただければ幸いです。
ぐみをお迎えしたのは2017年1月末、某ペットショップでした。
この頃、僕は2匹目のハリネズミをお迎えしたいという気持ちが強くあり、できれば里親になることを望んでいました。
つゆを1年飼育した経験を活かしつつ、不運にも手放されるハリネズミを救うためです。
ただ、里親募集のタイミングや募集地域との距離などの問題でなかなか里親になることがかないませんでした。
そんな中で出会ったのがぐみでした。
気づいた時にはつゆと出会った時と同じように「この子だ!」と引き寄せられるようにショップのケージを眺めていました。
とても臆病な子で、鼻の周りが真っ黒なのが特徴的で、可愛くてかっこいい。そんな印象でした。
お迎えした当初、ぐみはあごにできものがありました。
先天性の病気かもしれない…と疑念を抱きながらもお迎えを決意し、病院で診察を受けましたが本当にただのできもので安心したことを覚えています。
ぐみは絵に描いたようなハリネズミでした。
どういう意味かというと、常に針がツンツンと立っていて、音や気配を敏感に察知してフシュフシュと警戒する子でした。
比較的はやく慣れたつゆとは真逆で一向に慣れず、手に乗ってくれたり乗ってくれなかったり、手からご飯を食べてくれたり食べてくれなかったりと、毎日が一進一退、一喜一憂で楽しかったり悩んだりしました。
結局、本当に最期まで慣れることはなく、おとなしく背中の針をさわらせてくれることはありませんでした。
良い意味で「ハリネズミとは元来こういう生き物だ」と教わりました。
しかし慣れないと思っていたら「ご飯だよ」とケージにお皿を入れると一目散に食べにやってくる姿に癒されました。これだけでも幸せだったのです。
僕が仕事や妻の出産準備、入院、立ち合いなどでご飯の準備ができないとき、僕と同じく動物好きな父が代わりにご飯をあげてくれていましたが、同じように一目散にご飯を食べに来るぐみの姿を見て「ご飯をあげている間、ずっとケージの前から離れないんだよ」と母から聞いたことも覚えています。
これはあくまでも僕の主観ですが、ブログやYouTubeなどでハリネズミを紹介するとき、しばしば話題になるのは「愛嬌があってかわいい」とされる、いわゆる「べた慣れ」している子が多いと思います。
実際はたまたま機嫌の良いワンシーンを切り取ったものなのかもしれません。
ぐみを通じて、ハリネズミがいかに慣れることが難しいか、どういった生き物であるかということを正確に伝えることができたのではないかと思います。
客観的に見ればぐみの存在を正当化しているような書きぶりですが、事実としてハリネズミが慣れないこと、そしてそれでも良い、そういう生き物であるということを発信し続けている人は恐らくいないと思います。
思い出とは風化し、美化されると冒頭に書きましたが、ふとした瞬間に蘇ることもあります。
つゆを見たとき、ほかのハリネズミを見たとき。ああ、ぐみはこういう面もあったなあと、ここに書ききれていないこともきっと思い出すでしょう。
そのたびに内容は書き加えていきたいと思います。
ぐみが生きた足跡、存在していた証明。
写真はもちろんですが、YouTubeに動画もいくつかあります。
記憶はもちろんですが、記録として残っていることは本当に嬉しく思います。
今はまだ積極的に見ることは、心のブレーキが邪魔をしてできませんが、いつか自分にとって支えとなってくれることでしょう。
健康そのものだったぐみが急死した原因、僕のような立場であれば解剖などを行って解明するべきなのでしょう。
しかし、僕もひとりの人間として、飼い主として、きれいな体のまま亡くなったぐみの体にメスを入れるということをしたくありません。
何をしても、もうぐみは生き返ることはないのです。
今朝も目が覚めてケージのカバーをそっとのぞけばぐみが居るのではないか、ぐみが入っている発砲スチロールを開ければ目を覚ますのではないか、そんなことばかりしてしまいます。
ぐみと出会えたこと、僕の所に来てくれたこと、ともに人生を歩めたこと、すべてが宝物です。
ありがとう、ぐみ。またどこかで。
冒頭でお伝えした通り、本当に残念なタイミングでぐみが亡くなってしまったことと、その理由についてもお話させていただきたいと思います
子育て等のプライベートな理由で遅れてはいますが、ハリネズミと触れ合えるスペースを今月中にオープンする予定でした。
世の中のいわゆる「ハリネズミカフェ」とは一線を画すものであると信じています。
本来夜行性のハリネズミを昼間からいじくりまわし、しかもその生体を販売するという行為。
さまざまな考え方があり、需要があるからこそ人が集まるのでしょうが、僕は一切賛成できません。
Twitteでも言及してきましたが、夜行性であるハリネズミに人間が合わせるべきであり、ハリネズミに昼間の活動を強要することは実に軽率で愚かなことです。
また、そのハリネズミはいったい1日に何時間、次から次へといじくりまわされているのでしょうか。
「時間管理をして長時間触らせるような状況にはしていない」と言い訳している店もありますが、実際にそれを守っている店はほぼないでしょう。
また、多くのお店はハリネズミとお客さんを置き去りにします。勝手にさわって勝手に写真を撮っていってくださいと言わんばかりに。
多くのハリネズミ飼いさんが苦言を呈しています。
そんなストレスを受け続けた生体が健康に生きられるでしょうか。
僕はそうは思えません。
もうすぐ1歳5か月という短命なぐみの飼い主としては説得力に欠けるでしょうか。
しかしハリネズミブームに乗っかり、命を軽んじるビジネスモデルなど到底認められません。
僕がオープンするハリネズミと触れ合えるスペースは、月に4~5日程度営業、18時開店、1日5組完全予約制、お客さんに付きっきりで説明をし、来店時の香水等の使用厳禁、そして自分の余力がある限り里親として飼育できなくなったハリネズミを受け入れる予定です。
生体の販売はしません。もし里親として受け入れたハリネズミを飼いたいという申し出があれば、飼育し続けることができるか、経済的余力があるかなどを判断し、無償譲渡する予定です。
飼育するハリネズミの頭数が増えれば、予約枠を増やすことも考えますが、そうならないことが一番良いと考えています。
ハリネズミと触れ合える店を営業する資格、第一種動物取扱業に適合する資格も昨年取得しました。
借りた物件は広いとは言えず、立地も良いとは言えません。
偶然にも、動物を飼育してもよいという物件のオーナーに出会えました。
僕は妻子ある身ですし、生活していくための本業もあります。
すきま時間でしか店は営業できません。
だからこそ、ハリネズミたちにストレスを与えることなく、過剰な利益追求をすることもなく、身の丈にあったスケールと、ハリネズミの生態に対して誤解を産むことのない方法で、加熱しすぎたハリネズミカフェ等のビジネスモデルに真っ向からNOを突き付けることにしました。
これは僕のエゴです。様々な意見や現場を見てたどり着いたエゴです。
このエゴがどこまで通用するのか僕はチャレンジします。
人は言います。性善説、いわゆる人間の善意に頼った動物愛護活動、ビジネスは難しいと。
それに対する僕の答えはこうです。
「やったこともないのに偉そうなことを言うな」
「できっこないをやらなくちゃ」
オープン直前というタイミングでのぐみの急死に思わず歩みを止めようとしてしまいます。
読まれている方の中にはぐみの死を理由に、自分のビジネスの宣伝をしていると不快に感じることもあるでしょう。
真の善人は十人の内五人に褒められ、残りの五人には貶される。
下村湖人(1884~1955)子路第十三 二十四 子貢問曰郷人皆好之何如章より
分かり合えない人にくだらない時間を使うよりも、分かり合える人と有意義な時間を過ごしたほうが幸せです。
他人は他人、自分は自分。ただそれだけの話です。
店の詳細、開店時期等に関しましては調整中ですので追ってお知らせさせていただきます。
長文になりましたが、以上でこの記録を終わらせていただきます。
ご覧いただき、誠にありがとうございました。